YCC ハロウィン講談

YCCにおける「ハロウィン講談」が無事終了しました。

「日本の怖い“話”と“噺”」と題して、神田山緑さんによる、子供たちが怪談を好む理由や怪談を聴く意義、日本と西洋の怪談の背景の違いなどのお話の後、『四谷怪談~伊東快甫の最期』の口演という構成でした。

感染防止対策として検温、消毒は言うまでもなく、人数制限、またアクリル版設置など、声を出す話芸ゆえに、実施には厳しい条件のクリアが求められました。お声がけ下さり、共に企画制作を進めてきた(株)シアターワークショップの皆さんのご苦労、ご尽力は並々ならぬものがありました。のみならず、リクエスト以上のすばらしい“舞台美術”をご用意下さいました、リアルお化け屋敷ではなく、あくまでも話芸によって喚起される想像力の広がりをサポートするギリギリの造形が求められるのです。心より感謝致します。

「ハロウィン講談」と言っても、決して現行の“ハロウィン”に寄ったわけではありません。この十数年でしょうか?…知らぬ間に“定着”してしまった訳の分からない習慣と思っています。大勢が仮装して集い踊る…中世の風流(ふりゅう)と解釈できなくもありませんが、なぜ揃いも揃って異文化のゾンビやら吸血鬼なのでしょう?お岩さんやお菊さん、ゲゲゲの鬼太郎やねずみ男、鬼、天狗、河童などがなぜいないのでしょう?

急激なIT社会がもたらしたグローバル化が進む現代だからこそ、自らのアイデンティティを踏み込んで意識し続けないと、国や地域の文化が一気に崩壊に向かうことを危惧せざるを得ません。すべての事象に意味がなければ!と言っている訳では決してありませんが、この数年のハロウィンの現状にモヤモヤが尽きないのです。

日本の風土なりの幽霊や妖怪変化…つまりお化けとの付き合い方があると思っています。

その一つが怪談です。誰かがいつも自分を見ている…という感覚、つまり他者の視線になる大切さをお化けの存在が教えてくれているのです。今日の山緑さんの話と噺を聴いていて、日本の人たちは怪談を身近に置くことで他者との関係性をはかってきたのかも知れないと感じました。

今日の「ハロウィン講談」には、子供たちをも巻き込んで、無思考、無批判に「Happy Halloween!」などと浮かれている風潮に一石を投じたい…という企画意図があったことを告白します。

ついでに提案なのですが、2月14日のバレンタインは止めて7月7日に名称も変えて移行する…彦星が年に一度だけ天の川を渡って織姫と逢瀬を得るこの日こそ、愛の告白に相応しいのではないでしょうか。チョコレートではなく「おはぎ」を贈り、お返しには「大福」を…いかがでしょうか?